山の上

だいたい自分のために書いてる

めんどくさいのにつっかかる

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映画が最近見られなくなった。映画が見られない時期はよくあって、むしろ人生の大半は映画が見られない性質のままだ。だけど、その代わりとは言えないが、文庫本を読めるようになった。

 

今日は雨が降るのを承知で散歩に行った。古本屋はゲームコーナーを取り入れている店舗に限って潰れにくいのか、かなり古い本屋がたくさんある。ある古書店は文庫本は全て180円だから、私みたいな貧乏人にはかなりたすかる。こういう店は私の知っている東京には無い。だから千葉県も悪くない。

 

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最近人との関わりが薄いのもあるだろうが、(唯一と言ってもいい、)頻繁に会う人に依存ぎみな気がしていた。それもかなり病的で、自分の中の嫌なところがじわじわと露呈してきている。それを堪えるのも辛いので解消を試みようとすると気持ちが離れざるを得ない。だから今は文芸が頼りだ。人のエッセイに没頭するのは楽しいし、本当の意味で自分のことなんか考えずに済む。

例えば読み物というと、かつて撮影した雑誌のコラムを片っ端から読む。古書店で短編集を適当に選び読んでみる。Mediumを読む。ここまで文芸に心を救われていることもないだろうと思う。

リモートでのインターン業務、読書、英語学習、散歩時々恋愛…の休暇が永遠に続いている。無気力で喋りたいことも無くなっていく恋人とは一応、連絡をとっているもののとても平凡である。国境が閉鎖されているに近い今、私たちは会う機会が延々と遠ざかっている。会って一緒に休暇を過ごすとか、一緒に居る"場面の想像"ができない。気づいたら最後にあったのは2ヶ月前だった。


恋人とうまく行かないとき、別の人間から連絡が来るもんだから、人生は不思議だなあと思う。ブログに書いたか忘れたけど、去年の4月に一瞬付き合っていた中国人から久々に連絡が来たし(離婚するらしい)、6年前に付き合っていた男からもSNSをフォローされたりと、無駄に気持ちが忙しくされている。なのに、人生を捧げようと思ってた人からは一生連絡が来ないんだけどなあ。まあ、私が"人生を捧げる"対象にしてるのを知ってたなら一生連絡してこないだろうけど。私相当キモいし。

その一方で、曖昧な関係の人と私は揺れたり揺れなかったり。お互い安定してるのが理想なんだから、私が余計なことを言わなければいい。精神をまともに保って穏やかに、優しくしてればいい。勉強を続ければいい。あれ、自分はまた男のなってほしい女になろうとしてる?

ああどうしようかなあ、めんどくさい。全部めんどくさい。めんどくさいはずなのに、めんどくさいと言いながら構ってしまう。放置していても何も問題はないはずなのに突っかかる。

 

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