山の上

だいたい自分のために書いてる

失恋したあとの空虚な時間は嘔吐物をかき集めては飲み込むみたいだった

私は空虚な時間を伸ばし続けていた。その時私は19歳になって数ヶ月が経過していた。


誕生日を盛大に祝ってくれ、工夫を凝らした指輪をプレゼントしてくれた恋人、私が自分の一生を捧げるつもりで付き合っていたその男の子は、4月のある日、それは私がデートに誘って、トルコキキョウを一輪プレゼントした日、些細なことで喧嘩になった際に『わたしたちは別れなきゃいけないよ』と話を切り出した。確か、夜9時くらいだった。

 


その子は女の子だった。女の子でもあり男の子だった。私はそれを知りながら、恋人としてみるためにはずっと男性に接するようにするしかなかった。簡単に言えばこれが、"わたしたち"の破綻の理由で、遡るほど複雑に思えるその恋愛は2年後の今から見ればすごくシンプルだったかもしれない。多分シンプルだった。

 

 

私は別れる2ヶ月ほど前にラウンジで働き始めていた。その理由だって、セックスレスの夫婦どちらかが婚外を始めるのと同じくらい単純だと思っている。私は精神的に放置されていたし、恋人につきまとう人間(それが現実に存在するか、イマジナリーなのかはわからないけど)と恋人が仲良くしており日々悲しみに暮れていた。恋人に全裸の写真を送りつける友人が何人もいて、何回も吐きそうになった。恋人は好きだけど、それを許容するのは気持ち悪いと思っていた。でも一生をその人に費やすつもりだったから文句は言わないようにしたし、何より人の携帯を易々と見たりするのは良くないのを、私は頭では理解しているから。

 

 

水商売は思っていたよりもハードルが低いように思えた。働き始める時は多少の覚悟が必要だったこと、お店で2番目にえらいポジションであるママがお店のお会計を巧妙に操作して窃盗をしていたためにクビにされてしまった事以外は何も苦ではなかった。最初はむしろ、毎日毎日可愛くなっていく自覚が嬉しかった。しょうもない客から外見にちょっかいを出されることすら自分の伸び代だと思えた。

 

 

いつも、大学が終わって図書館に寄る。7時になったら大学を出て、別の駅に向かう。8時のオープンに合わせて化粧をして着替えるだけだった。11時半で終わることもあれば、朝の3時まで人のおしゃべりに付き合うこともあった。深夜の解散になればタクシー代が一万円くらいもらえた。私は、もらったタクシー代はうまく残して、彼氏のデートに充てていた。

 

 

彼氏と別れた日、わたしたちは私暮らす家の玄関で4時間くらい別れ話をして、ドアが閉まった瞬間に別れた。その瞬間玄関に崩れ落ち、泣きながら3分くらい目を閉じていた。私は脳内の97%をついさっき別れた彼氏のことでいっぱいにしていたけども、残りの3%くらいは次の朝のことを考えていた。本当に朝は来るのかと。あと明日から大学の新学期だということも、あと、ラウンジのバイトにも行かなきゃいけないことも。

 

その日から私はずっと、時間という名の空虚を永遠と引き伸ばし続けているかのような生活を送っていた。

わたしの心配していた『朝』は当たり前のようにやってきた。しばらくして、学校は行けなくなった。一日中、いつでも寝ようと思えば眠りに落ちることができた。失恋で物理的に胸に痛みを感じた。毎日泣くのかと思いきや、枯れたという表現が正しいのか、あまり涙は出なかった。一日一日が一瞬で過ぎていくが焦りは何もなかった。べつに、自分がなんのスキルを持とうが、持っていまいが、前の恋人を助ける人生の選択肢がないなら学校なんぞ行く必要が無い。と思っていた。


それに私は、死ぬ時は人に迷惑かけないように死ねる自信があったのだ。私の住んでいた場所からは低く横に長い山が連なっているのが見えていて、そのどこかには以前お城があったらしく、大学が始まる前、友達数人と「いつかあそこに行って肝試しをしよう」なんて話をしていた。実際に人が死んでたら面白いだろうから、もしも死ぬ時はそこで死んでギャグになってやろうと思った。

 

 

ラウンジのバイトは特に私の空虚な体験をより拡張させた。恋人と別れた翌日にあったラウンジのバイトでは、偶然近くにいたピアニストの男性をさらっと口説いた。彼は演奏家としてここのバーラウンジで二年くらい働いている。確かその時は42歳だった。

 

「ここ(ラウンジ)で言うのもアレなんですけど、別れちゃったんです」と言ったら若干あたふたしていたものの電話番号をくれて、それ以来半年ほど関係を持った。

その挙句相手夫婦を離婚させてしまったりしたが、しつこく聞いても彼はあまり話そうとしなかった。「もしもできたら、もちろん認知はするよ」と言っていたのを覚えている。泊まった日の翌日はきまって、仕事に行くからと早朝に出て行った。大体わたしは彼が出て行ったあとにもう一眠りする。

そんな"わたしたち"は、かなり親密な仲ではあったと思うけど、あともう一歩、何かが繋がっていなかったように思う。頻繁に飲みにいったり泊まったりしていたのに、結局彼の家に入ったのは、元嫁が出ていった後の閑散としたアパート一回と、無事引越しが終わった後の広々とした男の一人暮らし部屋一回だけだった。家はCDでいっぱいだった。結構好きだった。その家も、演奏家自身のことも。結局何にもならなかったけど。

 

2018年7月、恋人と別れたのが4月なので、だんだん悲しみを引き摺るままは良くないと思いつつも引き摺り続けた。わたしは夏になるにつれ、自分自身の陰鬱さとイカれ具合の差に疲弊していた。深い悲しみから抜け出せずに部屋に篭る日々、そのタームを抜け出せば、それを忘れようとする行動力が出てきて、そのギャップに戸惑った。どこまでもエネルギーがあった。今考えればすでに躁鬱の気配があった。そんな感じで人生を無駄に過ごしていたとき、アメリカでの撮影に誘われ渡米することになった。

 

ラウンジでは、自分の気を前の恋人から逸らすために働いていた。
ラウンジで隣にいた演奏家と付き合い始めたのも、前の恋人を忘れるためだった。
さらに、私がアメリカに行くのは前の恋人から物理的に離れるためだ。

 

アリゾナ州からラスベガス、ロサンゼルス、サンフランシスコを巡った2週間の旅はまさに青春そのものだった。また、前述するようにこれは紛れもない逃避行であった。だから私は異国にいる間に何度も「ここは日本とは繋がっていないんだから、大丈夫」と言い聞かせた。

 

旅の終わり、ロサンゼルスに戻り、空港で東京行きの飛行機を待った。何千キロ先へ行って少しでも忘れようとした。別れてからそれまで、恋人を忘れたことはなかった。それとは矛盾して、やったことの全てが前の恋人を忘れるためのものだった。忘れたいという愛は存在するだろうか。

結局何も変わらないかの如く、帰りの飛行機で大泣きすることになってしまい、なんて自分は我儘なんだと驚いた。前の恋人のことを無意識に反芻しては飲み込む。嘔吐物をかき集めてまた飲み込む地獄をやっているのに不味くない。涙の方がしょっぱい。

 

わたしが前の恋人のことを思って、また、忘れようとしてやったその単純作業は恐るべき虚無と自我のぶつかり合いだった。だけど、そんなのを繰り返している途中自暴自棄になってやったことなんて、二年経った今じゃ全然覚えてない。