山の上

だいたい自分のために書いてる

論考アイデア

 この企画では__________について、写真を撮り下ろし、論考を書く。

 

この機会を通じて知り合った分析美学の研究者である__氏と話していていて、「撮影者の情動とは何か?」という話題になると、私は少し考え込んでしまった。

 

私は報道と芸術の間での運動を通じて写真作品を制作してく中で「被写体の情動」に対してはかなり忠実に撮影をしてきたと思う。特に報道にコミットした写真では、被写体の持つ表情や動きはもちろん写真には写ることのない熱や声や匂いまでも写し取る気概で撮影する。

 

 そのような写真には私自身の持つ情動も写っていたとは思う。鑑賞者はブレのような動きの軌跡から、光、また編集過程で作られる色など、視覚的な情報から観察者の意図をくみとることができる。しかし、私が普段作っている写真作品の大半がスナップショットであること、撮りたいと思う被写体を見つけてからシャッターを切るまでに、私は感覚的に被写体を選択し、感覚で構成を組み立てる。そのように制作をしてるから、私が良いと思ったものは視覚的に現れていても、その意図というものはそもそも存在しているとすら言えない。なぜならフィールドに出て世界に出会うことが私のスナップショットにおけるもっとも有意義なものだからだ。

このほかにも、私が2019年に東京で撮影したデモの写真では喧騒の中で目線をまっすぐ前に向けて堂々と歩く40代の女性を日の丸構図で捉えたものがある。この写真をはじめ、私の作品は非常に静かなものが多い。写真のノイズや粒を出来るだけ避け、手ブレをなるべく除き水平を心がけている。私は意図的に自分自身の意図を取り除く。そこに見える現実とは、私がその場にいたということだけなのだ。



 もしも上記で語ったようなわたしの意図はそもそも存在しなかったとすると、現実に存在した事実として、ファインダーを通し状況を観察していた撮影者の私が持つ視点については、それくらいの人が考えているだろうか。




 だからこそ今回、撮影者の情動を写すにはどうすれば良いのかを考えた。

今まで実践してきた報道と芸術間での運動とは別に、それらの狭間にいる自分(撮影者)の情動を表現することはできるのだろうか。これまでやってきたようなフィールドワークにコミットする傍で情動-存在や視点、考え-を作品に組み込むのはあまりにも視覚情報が多すぎると思ったし、一般的な報道写真の規範というのは全体を意識するものであり、主観で撮影することを意識するのはその機能を失ってしまうような気がした。

それなら報道と芸術間での運動はいったんおいておいて、自分が被写体になるのはどうか?と考えた。これは偶然頭をよぎったアイデアであったが、伝えたいことを自分自身に投影することに挑戦するのは滅多にない機会だったし、なんとなくだがやってみるきがしたのだ。第一、企画に沿っているというのも理由にはある。



 今までセルフポートレートを撮ってこなかったのは、自分の体を撮影し発表することに、過大な自意識を曝け出す気がしたからだ。これは、私がポピュラーミソジニーに遭遇するのが怖かったからである。撮影中はその恐怖を感じて、写真を撮るのを止めようとも考えた。

 

しかし、そのアイデアは撮影が終わってデータを見返していくにつれて印象が変化していく。撮影してみると、セルフポートレートのプロセスにおいて、私の中に3人の独立した役割がいたのだ。それは撮影者としての私、素材としての私、写真をセレクトし調整していく私である。写真を撮りながら、私はその三つの特性を瞬間的に切り替えていた。

 

私の写真を見ていると、その被写体は自分でないように思えてくる。私が陥っていたポピュラーミソジニーの恐怖に関しても、私の身体が作品の一部で素材である事実だけが見えてくることで自画像から自意識が取り除かれていき、恐れも徐々に薄れていった。これ自体がいまだに求められる"美しくいなければいけない女性性"からの逸脱になったと考える。

 

場所の選択には素材としての己を忘れて自分らしさが強調される所を選んだ。写り方は、同じ自撮りでもスマートフォンのカメラを使用する時とは全く違った、目線と並行なレンズの位置を意識したり、下からの角度を意識した。



(つづく)