山の上

だいたい自分のために書いてる

大麻ハウスメモ

 大学の不登校が果たして「不登校」と称していいのかは謎だが、大学2年の時私は明らかに不登校になった。あの時私が何を考えていたか当時は全く日記をつけていなかったので詳細は思い出せないけれども、全てのことが重荷に思えたと同時にそれしかすることがない状況だった。ある意味それは依存状態だったとも言えるが、それらを脱するため、不登校を自己認識した約半年後に渡米した。

 

 学校、家族、友人、バイト先、家、地元、言語、また自分のアイデンティティのほとんどを初期段階に戻して、全てを再構築することにしたのは、あまりにもエクストリームだった。それが水平線の向こうに行くということだったのだが、旅行が身近になりすぎて最初は何も感じていなかった。むしろ、留学の数ヶ月前に下見にNYへ来ていたせいで自信すらあった。

 

 しかしニューヨークの冬は憂鬱だった。暗くなるのも早かったし、何より寒かった。紹介されて一番最初に住んだ家は裕福な人間が住む再開発エリアで、電車は各駅停車しか停まらないし雪の日は何十分も遅れた。友達がいない限り頼れる人間など一人もいなくて、ここに来ることが幸福なのか、もしくは死なのか分からなかった。おまけにニューヨークにやってくる留学生なんかはほとんどみんな金持ちの子供で(一年未満で祖国に帰っていく東アジアの最貧国の日本人の留学生すらも金持ちの子供は多かった)、特に実家に裕福さを感じていなかった自分のステータスこそが真の孤独に思えた。こんなに人がたくさんいるのに、いや、こんなたくさん人がいるからこそ孤独なのか。

 

 マジョリティの生活から逸脱することが旅における手立てだとわかってからは孤独都市も面白かった。チャイナタウンとメキシカンネイバーフッドに挟まれたあの小汚い路上にあるアパートが性に合っていた。防犯と防寒のためにドアが二つあるのだが、ひとつ目のドアを開けると大麻の香りが一気に襲ってくるから、私はそのアパートを大麻ハウスと呼んでいた。上の階には日本人が二人住んでいて、一人は朝から晩まで大音量で音楽を流している浮浪者みたいな外見の男、もう一人は口先ばかりだが容姿の整った男だった。