詩 - #1
小さな頃の自分が写った写真を見たとき、私がそれを私であると認識するために他人の力を必要とする。写真に補えないもの-例えば、名前や音、空気は、いかにして写真に写るのだろう。
日本にいる私とニューヨークにいる私は果たして同じ人物だろうか。時間を超えた先のとある地上で、違う音で対話し違う素振りをする人間は私と似た表面をした別の生き物なのではないか。表面ですら私の身体が少しずつ生まれ変わって、形を変えたり、肌が伸び縮みしているとしたら、私は何をもって私なのだろう。
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アメリカにいるときの写真は空の写真一枚でも色が違う。砂漠地域の空の青はもっと濃く、深い色をしている。光の当たり方も違う。
例えば、冬のニューヨークで朝10時に大通りを歩けば、光が自分にまっすぐ降りてくる。街が碁盤の目になっているから、交差点に出れば強く、どちらかといえば白っぽい日光にふれる。どれも輪郭がはっきりしていてボールペンでスケッチしたような素直で迷いのない車道と古いアパートが並んでいると、こまま終わりがない気がして、歩いてやろうと思ったり、時々は道が永遠に終わらないような気がしてやめたりと、自分の心を導いてくれたりする。
3月に私はまたアメリカへ戻る。郊外にある鉄道駅はだいたいエレベーターがなくて、重い荷物を雪の積もった金属の階段を登って高架にある電車に乗り込む。階段を登って、かろうじて一人いたりいなかったりする駅員と、その目を盗んで改札を飛び越える青年たちは今でも私の記憶の通り暮らしているのか。
私が見たニューヨークは私しか語り得ないことだ。それと同時に、私が語らなければ誰も語ることのできないとある場所の話について、疎くても書き続けなきゃいけない。それが2021年とこの先自分がしていくことなのだと思う。