山の上

だいたい自分のために書いてる

1. グレースの手は冬のニューヨークのこと

- グレース

 

 ニューヨークには日本人留学生は少ない。これを上の年齢層の人たちに伝えると驚かれるのだが事実本当に少ないのだ。そして移住組なんてのはもってのほかであって、その移住組の大半は中国や韓国系が大半を占めていた。その状況で、日本から来た留学生の一人だった自分が日本人の集団を避けて暮らすのは容易なことだったように思える。

 

 私の一番最初の友達は韓国からの学生だった。彼女は大学を卒業後、政府のプログラムで用意されたこの機会にNYへやってきた。語学学校では最初の数週間私と同じクラスで私が入って二日目の時、機会があって仲良くなった。

 

 私とグレースは似ていた。食べるのが好きでジャズが好きで、髪型が似ていて、性格の波長が合った。あとグレースは私より身長が高くて、私がグッと背伸びをしても追いつかないくらいだった。

 

 NYまで来たのに基本的に何もやりたいことがなかった私は、グレースの行きたいレストランに時々ついていった。老舗のベーグルの店、今風の盛りだくさんなアイスの店、ベトナム料理の店など、グレースの知っている店には何も外れがなかった。ニューヨークの店はどれも-それが不味くてもニューヨークだから許してしまうみたいなのもあるが-思い出深いものになってしまうけども、グレースと行った店はより鮮明に覚えている。料理が運ばれてきたときのグレースの顔がほぐれていくのを見るのが好きだった。私たちは韓国訛りの英語と日本語訛りの英語で、語彙が乏しいながらも"美味しい"を自分たちのできる限り表現していた。

 

 やけに彼女が食に興味があることをなんとなく理解していたのとは別に、グレースが話してくれたことが頭の中でつながる。グレースは大学で農業やら栄養学を学んでいたが、国家試験に落ちてしまったらしい。みんなが知るように韓国は途轍もない学歴社会で、学士を持っていることを前提に就職活動が進む。彼女にとってその国家試験に落ちたことは致命的だったそうだ。グレースが落ちるほどの試験の難易度で、就職難というなら、もし私が韓国に生まれていたら大変なことになっていただろう。

 

 韓国政府の組んだプログラムは、短期的な英語の集中レッスンと現地インターンといういかにも実践的な内容であることは前々から聞いていた。そのプログラムでNYへ来たのはグレースだけではない。確か全員で18人ほどいた。当時の語学学校の全員合わせても50人ほどなので大変な人数の韓国系の学生がいたことになる。

 

 そんなわけでグレースは語学学校を三ヶ月で去っていった。グレースは前々から有機作物を韓国でさらに普及させるための会社を起業したいと行っていたので、ワシントンDCにある広告系の会社で作物や食文化についてのキャンペーンなどを企画する部門にインターンが決まった時は私も一緒になって喜んだ。彼女の理想とする仕事にはそれなりに近いような気がしていたからだった。

 

 正確には36日、グレースはニューヨークを旅立っていった。空港に見送りには行けなかった。それ以来私はすっかり一人になって、学校が終わっても学校のロビーで寝て次の学校に行くまでの時間を潰すことすらしていた。(当時は二つの語学学校に行っていたので、毎日昼の間に数時間ほど空いている時間があった)

 

 グレースがNYからいなくなる前、撮影に誘ったことがあった。「夜に光のある場所で撮りたい」と伝えたら「タイムズスクエアがいいんじゃない」ということであっさり決まったのだが、グレース本人は私の撮影についてきて路上で被写体を捕まえるもんだと想像していたらしく、落ち合った時にびっくりしていた。それでも撮影することを承諾してくれた。記念撮影的な、別れの前の撮影というのは何て表現すればいいのかわからないが、そんなものを撮影したわけだ。夜のタイムズスクエアは映像の広告が路上を永遠に照らすので、同じ場所に立っていても干渉する光の色が変わり続ける。何枚もシャッターを切った。NY3月はまだ寒いのに2時間くらい私たちは外でぼんやり立ったりカメラで遊んでみたりして無邪気だった。その写真を見返してまた呆気にとられた。

 

 グレースは別れ際よくハグをしてくれた。私たちアジア人はあまりスキンシップが多くないのでそれ自体がレアだったこともあるけど印象的だった。あと手の大きさを比べた時のことをよく思い出す。長くて細い指のことを思い出す。お互いが末端冷え性だったので、若干冷たく感じた。グレースの手は冬のニューヨークのこと。今は韓国にいるはずのグレース、会おうと思えば会えるはずのグレースも何だか遠く感じる。