山の上

だいたい自分のために書いてる

待ち人、不在の人

  •  メンヘラは常に待ち人だ。私は待ち人としての素質があると自負している。私はプロのメンヘラである。私は人を待ち続ける。


  •  ”不在”とは私の永遠のテーマである。旅は不在が運動している様な感覚に思えるし、第一、多分それは私のほとんどの旅が逃避行だからだと思うのだが。昨年開いた個展(http://kannaibunko.com/event/342)のタイトルも"西の旅、不在を遠くに見つめる"というもので、その名前をつけた当時はパッと閃いた。展示の名前を考えているときに友人が「単語じゃなくて、文章がいいと思う」といったのがいいアドバイスだった。


  •  メンヘラと不在は切り離せないものだ。不在というものは強烈な苦しみをもたらすけれどもその苦しみというか、「溝に嵌る感覚を是非味わいたい」または「味あわせてくれないか」と思ってしまうのはなぜだろうか。向き合っている間は一瞬で、帰路での電車に乗る間、痛む心臓と気分が窶れていくのを非常に主観的に時々メタ的に観察し、どうしようもなさに悲しんだりするのに、なぜどうにもしようとしないのか。



  •  2年以上前になるが前の恋人と付き合っている間、私はほぼ毎日この人に宛てた手紙をノートに記していた。以下のエントリ。


  •  不在の人のことを考えることよりも、その人に宛てて自分にあったことを文章に起こすことは、確実に幸福に思えた。2日に1ページは費やしたので、付き合っていた期間ノートは何冊も溜まっていた。それは会っていない時もずっと君のことを考えているという意味でもあったし、相手が私のことを一瞬たりとも忘れるなんて許せなかったというわがままをぶつけた物であった。ただ、今になって言えるのは、私が不在の人のことを忘れることを非常に恐れていたということだった。


  • 不在の人を永久的に思うのは肉体的にも精神的にもすり減る行為なのだが、そのくせ中毒性が高いので困ったもんだと思わされる。何にもしなくても満足感がある。悲しみに暮れるほど、また喜びに満たされるほどそれはより強く感じられる。しかし、その間に永遠と広がるグラデーション的な感情には、どうにも腑に落ちない気持ちにさせられる。それがまた自分の呼吸を窄める。それも今となってはマシになってきたと思いたいのだが…


  • 不在の人を待つ上で苦しいのは、不在の人が他の欲望に支配されているときだと感じている。それは不在の人の視界に自分が入ってない時であって、私は如何しようも無い孤独感に苛まれる。無力感を感じて、泣く気力すらも出てこなくなる。私は忘却に走りたくなる。時々の忘却は心の休暇になるから、そういう時は喜んでその休暇を満喫するようにする。大体は、そのさき(間)でまた不在の人を見つけることになる。それは勝利でもなければ敗北でもない。持続性のある愛が正しいなんて全く思わないしなぜ正しいのかすらわからないからだ。