山の上

だいたい自分のために書いてる

論考:女性演奏家の宣材写真を用いた生存戦略

最近描いた論考を期間限定で公開します。資料画像は一応削除して、文章のみの掲載です。そのうち消します。校正してないので誤字脱字あると思う。すみません。

 

 

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 私は中高生の時にフュージョン音楽が好きで、主に日本の女性サックス演奏者の音楽を聴いていた。女性演奏家の作品を音源で鑑賞する際にCDジャケットのイメージに目がいくと、その度に奏者本人のイメージが使用されていることに疑問を抱いた。演奏者本人の写真がCDジャケットに起用されることは珍しくない。私はこの現象を不思議に感じているが、このようなCDジャケットは女性演奏家の宣材写真がこれらのイメージの原型であるという仮定をした。

どの宣材写真にも見られる特徴を挙げると、女性演奏家はデコルテや腕を露出したドレスなどの女性らしさが強調された服を着用し、微妙な角度を保ちながらレンズの方を見て微笑む。人物が担う仕事によっては、楽器を片手にカメラの前で構えることもある。肌は非現実的な質感を保ち、人工的に作られたスムースな表面であることがわかる。一般的に目にする演奏家の宣材写真のほとんどがこのような明らかな特徴を持っており、これらのほとんどは女性演奏家の肖像写真においては基本的な要素だ。これらを踏襲した上で個性を上乗せする形で宣材写真の製作に取り組む女性演奏家も存在するが、上記のテンプレートに嵌った女性演奏家たちのイメージは女性らしさが強調されているとともに、個性が排除されている。

 

1.宣材写真の要素(問題提起)

宣材写真とは、他者(第三者の他に団体などを含む)自分を売り込むためのイメージ写真である。音楽家は宣材写真を、ホームページ、ブログ、パンフレットなどの広告に使用する目的で制作あるいは写真スタジオに外注する。写真スタジオは音楽家専門を売りにしている店舗も存在するが大半は「プロフィール写真」の全般を取り扱う写真スタジオであり、そのような写真スタジオは主に就職活動用の証明写真撮影やオーディション向けの人物撮影、法人向けのプロフィール写真の撮影などを兼業することが多い。

女性演奏家の写真を実際に見ていくと、彼女たちはカメラに対し斜めに体を向けて、レンズを見つめるもしくは伏し目で起立している。このアングルは正面を避けられており約45度の方向を意識している。衣装の多くは、デコルテが開いていて腕が露出している無地のドレスだ。ドレスはそれぞれの演奏家の専門分野によって好ましいとされる色は変わる。例えば「フルート 宣材写真」と検索すると演奏家はそれぞれの個性に合わせて様々な色のドレスを着用した写真を見ることができる。一方で「トロンボーン 宣材写真」を検索すると、大半の演奏家が紺色などの暗色のドレスを着用している。髪色は暗めでロングヘアーが好ましいとされており、表情は上の歯を見せた笑顔か、口角を上げたすまし顔だ。違和感を与えるような目の強調は望ましくないとされ、自然さを意識していることがわかる。楽器を扱う演奏家は楽器と一緒に写真に写ることもある。

このような「感情表出が抑えられ、女性性を備えた肖像写真」が、本節で取り上げる演奏家写真に見られる特徴である。この特徴に従って構成された写真を本稿における「典型」と呼ぶ。



参考:「宣材写真 声楽」の検索結果

女性演奏家のイメージの疑問に加えて私が関心を持ったのは、宣材写真を構成する要素に撮影者であるスタジオカメラマンは彼らが写真家として持っている理想が、被写体の要望と比較した時に比重として少ないように思えたことにもある。その理由として、商業カメラマンは被写体の変身欲求に応えることが仕事の一環であることがいえるだろう。クライアントである被写体は世間からの目線を意識して、既に賞賛されたポートレイト写真を参照し、それらのイメージの人物をそのまま自分に置き換えて複製することを求める。自己の持つ個性をを放棄させ、より良くテンプレートに人物を当てはめ、撮影において実装し、宣材写真で具現化することはスタジオカメラマンの仕事である。したがって、このような肖像写真の制作プロセスでは、スタジオカメラマンの義務の一つには、彼らの意図や存在をを最大限減らすことが吟味される。

このような女性演奏家の宣材写真における典型的な要素の構成について、スタジオカメラマンの裁量が大きいことは確かだ。しかし、このような機会を生み出しているのはクライアントである女性写真家側である。彼女たちが自ら望みこのような撮影の機会をセッティングしている。では、なぜ彼女たちは宣材写真を制作するにあたってこのような典型を踏襲するのだろうか。この問いを考えるにあたって、彼女たちが「綺麗だから」「好印象だから」このフォーマットを選んでいると結論付けることは説得力に乏しい。本稿ではこのような紋切り型で大量生産されている女性写真家の表象を、肖像写真の歴史と、画像生成プロセスの原点である当事者意識を元に、被写体の自意識の観点から考察する。



2.仮定

  1. 女性演奏家自身も、典型的な宣材写真の写りかたを望んでいる。彼女たちは『スタジオで・ドレス姿で・楽器と一緒に・微笑む写真』を達成し、宣材写真における”良い被写体”となることで音楽活動と周辺環境への対応することができる。しかし、その背後には彼女たちのナルシズムがあり、自己愛を満たすことをビジネスとした写真スタジオと依頼元である女性演奏家共依存的に存在している。
  2. 音楽界がもたらしている同調意識も宣材写真の生成に影響を与えている。それは演奏家同士の圧力によるものである。女性たちはそのような抑圧を水面下で把握しており、無意識的に典型的な宣材写真を踏襲している。そのような制限を踏まえた上で彼女たちはイメージの中で個性を主張しようと試みている。
  3. 女性たちが素直に宣材写真の典型に従うのは自分を売り出すためである。複数人で演奏をすることの多い演奏家は集団全体としての調和を保つために各々のビジュアルを暗黙の標準値に合わせる必要がある。つまり、生存戦略的に典型を手本にして撮影に臨んでいる。


3. 人物のイメージング 

(1)写真スタジオの役割 改めて述べると、宣材写真とは、他者(第三者の他に団体などを含む)自分を売り込むためのイメージ写真である。ここでは政治写真やプロパガンダ写真など、社会的なアイコンを形作る写真には言及せず、写真スタジオとその顧客である一般市民の間で撮影される肖像写真について言及する。

宣材写真を撮影する際には、事前に撮影者と被写体は互いに用途を把握し完成のイメージを擦り合わせて、写真を見せる他者や団体の評価軸に合わせたイメージを生成する。現在流通している宣材写真の大半は、被写体が他の人物と一つカタログの上で比較されることを見据えて撮影されている。比較されるという前提の元で撮影に臨む被写体は、いずれ自分の写った写真を鑑賞する第三者の視点を内面化し、同時に自分自身はカメラの前で素材であると認識している。つまり宣材写真に写るということは人間としての現実的な行動を停止し、自分の身体を一つの素材として提供する事である。しかし、このような宣材写真は、撮られる被写体が個性を失った素材として撮影をされながらも、自分ががいかに魅力的であるかを表現しなければならない。



(2)演奏家写真の撮影環境 実際の写真スタジオでの撮影現場において、女性演奏家がどのように振る舞える環境にあるのかクラシックの演奏者を専門に撮影する写真スタジオのホームページから、説明書きを参照して整理したい。以下のような説明書きは2021年1月6日現在の文章である。(キャプチャは左横 図1)

 “アーティスト写真から、演奏会のパンフレットやポスターなどなど、肖像+世界観を加えるご要望に応えます。アーティストや演奏家の写真では「人物だけではなく、その世界観を表現したい!」なんて、当写真スタジオのフォトグラファーは思って撮影に入るのです・・・が、アーティストさんとはいつも談笑しながら撮影となってしまうので、決め顔より、リラックスした写真ばかりになります。(笑) バンド、グループなど複数名の撮影や楽器の持込などにも対応していますご相談ください。演奏家用写真にはパンフレット掲載用写真(みんなと一緒に載る) 、リサイタル用写真(自分一人で載る) の2つのタイプがあります。(HPから )” https://www.g-studio.jp/artist.html

改めてこの文章からは、演奏家の宣材写真は「①アーティスト写真、②演奏会パンフレットもしくはポスター」に使用されることを前提に撮影されていることが読み取れる。その次に、”「人物だけではなく、その世界観を表現したい!」なんて、当写真スタジオのフォトグラファーは思って撮影に入る(中略)リラックスした写真ばかりになります”という撮影者目線で語られた、写真館のイメージを与える文章が綴られている。宣材写真の形式には触れずに撮影現場の雰囲気を伝えているこの文章は、ドレスや小道具、メイクアップなど、どのように着飾るか、などという被写体側の振る舞いには触れていない。撮影側も被写体側も互いに音楽家の宣材写真にはどのような条件が求められているかを踏まえており、衣装やロケーションなどのいわゆるテンプレート的な制限が伴いつつも、「どこか個性を主張したい」という被写体側の気持ちを汲んだ文章だといえる。それを感じさせるのは「人物だけではなく、その世界観を表現したい!なんて、当写真スタジオのフォトグラファーは思って撮影に入るのです」という文章の曖昧さにある。限られた可能性の中でも皆と同じ写真になるのは嫌であるとか、作品にオリジナリティを持ちたいという気持ちは撮影者も被写体も変わらない。

 

(3) 個性の消滅を求められる肖像写真 写真樹の開発初期から肖像写真の制作も行われてきた。写真機の普及によって写真が肖像画の位置を代わっていくなかで、人物の写真は風景写真と同様にピクトリアリズムの潮流に呑まれていく。絵画が持たなかった写真の最大の特徴は光学的真理である。写真は実際に存在した過去の景色を、少なくとも絵画によりは短い時間で現像することができ、写真の可能性が大きく開かれたように思えたが、芸術作品として価値の低かった写真は絵画の構成を模倣して作られていた。

しかし、現在撮影されている宣材写真も、このようなピクトリアリズム的な肖像写真に見られる条件が踏襲されている。初期の肖像写真を参照して現代の宣材写真を構成する要素を挙げると、類似性があることがわかる。肖像写真の資料を調査したところ、1848年ごろに撮影されたとされる撮影者不明の音楽家二人の肖像写真の資料が存在した(左下図2)。背景は無地の壁で空間が横に広いことから、撮影場所は高級な住宅の居間であり、当時の上流階級の生活空間を表現していることがわかる。カーテンや椅子、ソファや石柱が設えられていることも、貴族らしき雰囲気を漂わせている要素になっている。被写体として演奏者であると思わしき二人の男性はそれぞれバイオリンとフルートを持ち座っていることから、この写真が演奏家の写真であることがわかる。1855年ごろ、写真館が普及したヨーロッパではこのような上流階級の暮らしを表現するために、緑豊かな庭園が描かれている背景や、高級感のある居間が描かれている背景が使用された。このような肖像写真のプロセスには写真をとる人物の助けもあった。写真術が大衆に普及した頃から、写真館や職人としての撮影者は被写体の希望する外的イメージの生成を助けるという役割を持っていた。その例としては上述した写真スタジオに設置されている絵の具で描かれた風景の背景紙を利用するなどその場で出来る限りの試みや、撮影した写真を後から絵の具で修正する試みが行われていた。これらも写真館の仕事の一つであった。

 

このように人々は肖像写真を撮影する際は上流階級に見えるよう努力を惜しまなかったが、自分たちがどういう風に見られるかという意識のもとで撮影された肖像写真ではその人物の個性はあまり主張されておらず、典型に嵌っているという印象を受ける。当時における肖像写真が撮影されることの必要性とは、人物の個性を出来るだけ排除し社会階級を最大限に主張することであった。人物の表情までもが統一されており、この写真から享受することのできる被写体の個人的な情報は、人物が楽器を用いた職についていることくらいだろう。



(2) 個性の消滅を求められる肖像写真Ⅱ 冒頭で述べたように、演奏家写真には顕著に見られる特徴がある。これらの現代の演奏家写真における要素のなかでもっとも個人の印象を強く与えられるのは本人の身体表現である表情だ。また、演奏家写真で頻繁に用いられている四分の三ほどの斜めからの構図「アングル・ビュー」は自然さや動きを感じさせる角度であり、代わり映えのない演奏家写真に人間性を与え、人間のもっているさまざまな側面を立体的に想像させることができる。正面からのアングルはあまりにも人物を語りすぎてしまうし、迫力もしくは威圧感すらも感じさせる。正面の肖像写真を見たとき、鑑賞者は多くを読み取りすぎてしまう。斜めのアングルは、適度に情報を見逃すことのできる角度なのだ。

 

アングルの大まかな統一は、演奏家の肖像写真が列に並んで掲載される演奏会や講演会のパンフレットやイメージ作りにおいてもっとも重要視される現場の一体性を形成することができる。そのため、柔軟に対応できるフォーマットとしてのアングルは肖像写真の保つ一つの典型的要素を担っている。本来は個性の消滅を図るために人物のアングルが決められていたのに対して、このような形式的枠組みが維持・実践されていることによって現在の演奏家が宣材写真を撮影する際は、パンフレットのフォーマットや、肖像写真が並べられることを前提にそのアングルを選んでいる。



 

4. 顔の流通と賞賛される写真

(1) 大衆への写真の流通 写真の複製技術に伴って始まった写真の商品化と流通の歴史を遡ると大衆が売買していた写真のほとんどは肖像写真である。1854年までは写真機の持ち運びが不便だった。ダゲレオタイプは磨いた銅板に感光させて像を生成するため一枚のサイズが約18×24センチと大きかった。また一回の撮影で一枚しか作ることが出来なかったため、高価であり一般大衆まで普及しなかったが、1854年にフランスのアンドレ=アドルフ=ウジェーヌ・ディスデリによって考案された名刺判写真によってそれまで問題とされていた大きさと複製技術が向上した。名刺判写真は6×10センチの写真を6枚から8枚を一度に撮影でき、その手軽さから当時の大衆の所有欲に結びついた。

 

名刺判写真がやりとりされるようになると、無名の人物は約1~3ドル、有名人は約25ドルで販売された。名刺判写真の収集に熱狂的な人々は当時「カルト・マニア」と呼ばれた。1860年にはフランスのディスデリが『現代人ギャラリー』というシリーズを制作する。それは毎週2フランを払うことで有名人の名刺判写真と略歴の冊子が手に入れられるシステムで、撮影のモデルには俳優や女優が多く採用された。上述した名刺判写真は集められたのち自分の家族写真が入ったアルバムに一緒に収められた。

この時代大衆には二つの欲望が存在していた。一つは自分の肖像を撮ってもらいたい気持ちであり、もう一つは他人の肖像をコレクションしたいという気持ちである。この時代にはまだ写真機は一般大衆には普及しておらず、写真を撮影されることよりも人々の写真を集めることの方が一般的だった。つまり他人の顔を集めることは自分の肖像を眺めるという行為よりもはやく大衆に普及したといえる。

他人の肖像写真の普及が、自身の肖像を撮影する機会よりも早く行われたことは、肖像写真における写り方のスタンダードを提唱する機会になった。それは本稿における典型的な肖像写真と、それを身体化していく大衆の意識に結びつく。また、肖像写真の普及とそのやりとりが金銭を伴っていた影響も大きい。上述したように名刺判という規格に沿った肖像写真には価格のばらつきがあった。無名の人物の肖像写真は約1~3ドルで販売され有名人の肖像写真は約25ドルで販売されていたことで、写真の価格は流通している枚数によって変動するのではなく、肖像写真に写った人物の価値を反映していることでその価格が決められたことがわかる。大衆は、自身の肖像の価値を上げることによって、全く関わりのない第三者の視点からの承認を得ることが可能になった。そのような価値の高い肖像写真を撮影するために、大衆はすでに認められた価値の高い有名人の肖像写真からヒントを得る必要があった。

 

5. 写真に写りたい気持ち

本節では、写真術における肖像写真の運用と、それに伴って記録された被写体の自己愛の表出について言及する。大衆が日常的に写真機を用いるような時代になるまでの写真の歴史は色々な面から語ることができる。宣材写真の歴史については写真術以前の絵画史まで掘り下げることはできるものの、宣材写真がもつ大きな役目である広告としての効用を持つのは印刷技術がさらに進んだ1930年以降である。

写真技術は1839年にヨーロッパを中心に開発された。ダゲールのダゲレオタイプをはじめ、同時代的に開発されたニエプスのエリオグラフィー、タルボットのフォトジェニック・ドローイングが存在した。この三人に共通するのは科学者ということである。写真術はその特性である光学的真理から、肖像写真以前より記録のメディアとして医学や工学の分野に深く関わりを持っていた。化学としての写真術が肖像写真と合流するには時間はかからなかったが、裕福であればあるほど写真を撮影できる機会に恵まれ、ダゲレオタイプが発表されたフランスで最もはやく写真は市民に普及した。パリでは写真館が1841年に10軒程度開かれ、ダゲレオタイプが使用され始めた約10年後の1850年には50軒に増えた。

写真術が開発されてから市民への普及が急速に進んだ理由には、この論考で取り上げる宣材写真に大きな関係があるのではないか。写真機のレンズから見た自分の姿を見るという体験を経験することによって、人物像を記録するという目的だけではなく自分のイメージを作ることの面白さを大衆は覚えた。それは写真館を繁栄させ、写真を売るビジネスに繋がった。第三者から高い価値のつけられた肖像写真は被写体の承認欲求を満たした。



(1) 自己愛の表出〜カスティリオーネ夫人の肖像写真〜 写真術の初期に撮影された人物の中で最も被写体としてのポテンシャルを自認していた、カスティリオーネ夫人という女性がいる。ナポレオン三世の愛人であったカスティリオーネ夫人の写真は、肖像写真家ピエール・ルイ・ピエルソンが何百回も撮影した。夫人の個性と自己陶酔で、彼女の死肖像写真は皆当時の標準的な写真とはかなり異なったものになっている。カスティリオーネ夫人の肖像写真は一般大衆向けに撮影されたものではなく、あくまで本人の「撮影されたい」という欲求に基づいて撮影されたものである。

 

この時代に先例となる肖像写真は多くなかったはずだが、華やかなドレスを纏い高級感溢れる室内で撮影された写真を見ると、カスティリオーネ夫人が写真術以前の人物画におけるモデリングを意識してカメラの前に立ったと予想がつく。カスティリオーネ夫人は写真に写ることが衝撃的だったのだろう。自分の姿を自分で見て、さらに美しく写るために何百回もピエール・ルイ・ピエルソンにシャッターを切らせている。カメラの前に立つ時間と完成した写真を見る時間は連続し得ないため、自分の意図をイメージに起こすために微調整を行うのも、露光すらも条件を合わせなければならないほど難しい。そんな状況の素でも撮影を何回もこなすこと自体に、彼女の自己愛が表出している。



(2) 写真に写る自分について〜『サルペトリエール写真図像集』〜 記録のために肖像写真が用いられた初期の事例として、精神医学の分野で写真が用いられた『サルペトリエール写真図像集』を挙げることができる。1876年にフランスのプルヴィル博士が出版した『サルペトリエール写真図像集』は、精神医学者シャルコーのもとで撮影した写真である。本書によればサルペトリエールは、”大監禁の一大中心地である。(略)「体質的異常者」、その他 『生得的犯罪者」など、すべてがそこに閉じ込められていた。それは女たちの、むしろ正確には、女の屑すべての、〈総合救貧院〉だった。”とされている。そこではパリ精神病院に入院する女性患者たちの肖像写真が撮影されていた。彼女たちは初期の写真術において自分の知らない自分を見ることのできた庶民だ。これは医者が入院患者の女性たちに催眠をかけてその様子を撮影したといういわゆる司法写真に近い手法をもって作られた記録だが、自分の写ったイメージを見た患者たちが見たことのない自分の肖像に衝撃を受け徐々に自らヒステリーを演じていくようになる。この書籍の本文からは、自分自身を見た彼女たちの反応などは記載されていない。

 

このような事例を踏まえれば、写真が常に正しさを与えるメディアではないということはすでにわかっていたといえる。患者たちはヒステリーを起こした自分のイメージを見ることや写真に写ることによって、以前より見られているという意識を強くもったと考えられる。また、自分の姿を見るとき、私たちは少なくともその肖像が自分であるか判断する能力を持たない。自分の肖像というのは写真向けに変化した自分自身であるためだ。またそのイメージを見る私とカメラの前にいる私は別空間に存在するため、現在と過去を横断した自分の肖像に当事者意識を結びつけようとするときに生じる違和感がある種の高揚感として「ヒステリーを演じる」欲求に変化する(かもしれない)。

現代においてもっともポピュラーであるスマートフォンの自撮りは、写り得る人物とそれを確約する人物は同時にぴったりと重なっている。このようなスマートフォンのセルフポートレートが本稿における宣材写真と成り得ない理由は、第三者の視点が存在しないことによる信頼性の低下にある。しかし、サルペトリエール写真図像集にある患者たちの肖像写真を参照すれば、肖像写真をもっともコントロールできるのは主体(被写体)自身であると言えよう。現代のような「カメラの目は他人の目であるべきだ」というような主張は、形骸的であって意味のない意見のように考えられる。写真にはその事象の検証を行うという能力よりも、その被写体が存在していたことの証明にしかならない。

6.宣材写真に潜む意識  

 

(1)聞き取り調査の概要 宣材写真に写った時の体験を、元舞台芸術関係のパフォーマーである女性Aさんにアンケート調査を行った。今回の調査では、宣材写真に関する相対的な意見と、個人的な意見を混合させるように順番を入れ替えて質問票を制作した。音楽界に存在する同調化と相反する演奏家個人のビジュアルイメージの要望を、明らかに比較させるためである。この質問を通して、これまでに論じてきた「被写体の自己愛」と「既存のテンプレート」がどのように絡み合い、現在のような宣材写真が生成されるのかを目的とする。

 

(2)調査方法  今回の論考では1名にアンケート調査を行なった。質問票をメールで送り、文章で返事をいただいた。今回は実際に演奏家がどのように宣材写真に関わっていくかを掘り下げるため、質問になるべく忠実に答えてもらうことに重きを置き、サンプル数は1とした。

 

  1. ジャンルに囚われないとしたら、どのようなアーティスト写真(宣材写真)を撮影したいですか。個人的な感覚で答えてください。

    高級感ある宣材写真にしたい.ex黒背景や、ホールでの撮影
    または屋外での個人の雰囲気が垣間見える写真。
    ex海や草原、自然を感じれるもの、または図書館など趣味の垣間見えるもの


  2. 一般的な宣材写真において、どのような写真がふさわしいか特徴や条件をできるだけ挙げてください。

    黒背景、クラシカルな髪型、クラシカルな衣装、可愛らしいより、かっこいい、綺麗という印象を抱きやすいもの、男性ならタキシード、女性ならドレス等。


  3. 写真に写るときには、ありがままの自分で写りたいですか。それとも、せっかく写るなら綺麗に写りたいですか。個人的な意見で答えてください。

    綺麗に写りたい。ただ、その公演や、曲名のイメージに合うようにしてしまうと思う。著名な人でもバッハなどの演奏をするときの宣材はバッハに扮した格好の宣材を撮ったりする事がある。


  4. 宣材写真を撮影するとき、テンプレートである『スタジオで・ドレス姿で・楽器と一緒に・微笑む写真』を踏襲しましたか。また、それを意識的に心がけていましたか。個人的な意見で答えてください。

    意識的に心がけている、というよりも師匠等から宣材写真用のスタジオや人材を紹介されるので、それ以外の選択肢は無いと思っていたし、やろうとも思っていなかった。


  5. 写真スタジオで撮影することに違和感を覚えたことはありますか。

    違和感は無い、前述の通り、疑問を抱くことすら無かった。


  6. 宣材写真において誰に撮ってもらうかは重要ですか。過去に宣材写真を撮影したとき、写真で名の知れた人に撮ってもらいましたか。

    重要ではあると思う。ただ、宣材写真として写真家のクレジットが乗っているのをあまりみたことがない。自分自身は写真家として既に有名人等を撮っている方にお願いした。


  7. [1]番で答えた、理想のアーティスト写真とそっくりに自分が撮ってもらえるとしたら、それを現実的に使いたい気持ちはありますか。使いたいが使える雰囲気ではない場合は、そう記入してください。

    表現することにおいて他者をそっくり真似するのはプライド的に許さないものがあると思うので、使いたいとは思わない。


  8. あなたが宣材写真を撮影するとき、テンプレート『スタジオで・ドレス姿で・楽器と一緒に・微笑む写真』をやめることはできますか。

    やめることはできると思うが、チラシをみる、または宣材写真を見る人達の受け入れのハードルが上がるのであれば、よほどの画期的な企画で無い限り、現在の主流以外の写真を撮る選択をすることは無いと思う。


  9. あなたが『スタジオで・ドレス姿で・楽器と一緒に・微笑む写真』という制限のもとで宣材写真を撮影するとしたら、どのように自分を表現しますか。

    なるべく綺麗に優しく上品な雰囲気が出るように衣装などを寄せると思う。


  10. 宣材写真について、タブーだとされていることがあればその内容を教えてください。他者の宣材写真の話でも可。

    クラシック音楽においては、破顔して笑う、歯を見せる、変顔をする等、下品の部類にあたるもの、露出のあまりにも多すぎるもの、性的な要素の含まれるものはタブーと考えられている、ただし、言葉として明確に否定されているのはみた事がない。上記の逆のものが好ましい、と言われているだけである。


  11. 被写体の写りによって売上が変わるという現実があります。それを踏まえて写真を撮っている感覚はありますか?

    ある。明らかに美人の演奏会に行きたいと思っている層がある一定数いるので(実力はさておき)なるべく写りは良くしたい。


  12. 被写体の写りによって売上が変わるという現実を、逆手に取って宣材写真を撮影しているという意識はありますか?

    ない。演奏会は、お金を出したからには良い演奏を届けるというお客様との信頼関係で成り立っている。エンターテイメントではないので奇をを衒う宣材をしたところで、曲目がチラシに乗っている限り、どんな宣材写真を乗っけても行われる演奏が変わらない、という現実があるからだと思われる。実際に以前神奈川フィルハーモニーコンサートマスターがど金髪にピアスという出で立ちであったが、実力はすごくあったものの、疎まれていた事実がある。石田康尚。ただし、オーケストラや楽団を覗き、確固たる実力のもとにソリストであれば、奇抜な宣材や見た目でも受け入れられている事実もある。


    (質問文と回答文は原文ママ 実施日:2021年1月14日)



(3) 売り込むための写真、生き残るための写真 受け取った回答を見てみると、「はっきりとした決まりはないものの逆らうと好ましくない雰囲気がある」というような同調化への批判をしながらも「好ましくない写真の写り方を実践するとビジネスに繋がらなくなってしまう」という、観客からの需要を懸念した回答が印象的だ。このような他人の目線を介在した撮影は、写真上で理想の自分や、理想の出来事を生成したい、またはすでに賞賛された他人のイメージを複製するように写真に写りたいという自己愛的欲望を暗黙の了解によってほとんど覆い隠されてしまう。しかし、その一方でこのような典型が存在しているからこそ、写真に写る変貌した自分を発見することもできるだろう。この現象においては、スタンダードに従った上で「自分は可変である」という承認と自己愛的な認識が生まれている可能性もある。

 

Aさんは質問1『ジャンルに囚われないとしたら、どのようなアーティスト写真(宣材写真)を撮影したいですか。個人的な感覚で答えてください。』に対して、ハッキリとした要望を持って答えている。回答には三つの案が述べられており、それぞれのイメージは具体的だ。その後に続く回答でAさんが宣材写真の受容について言及した文章では、タブーである写り方とされているような行為-それが破顔して笑う、歯を見せる、変顔をする等、下品の部類にあたるもの、露出のあまりにも多すぎるもの、性的な要素の含まれるものではなくとも-は鑑賞者と演奏者の暗黙のパワーバランスの元で現在まで制限されていることがわかる。

 

同時にAさんが質問12に「演奏会は、お金を出したからには良い演奏を届けるというお客様との信頼関係で成り立っている。エンターテイメントではないので奇をを衒う宣材をしたところで、曲目がチラシに乗っている限り、どんな宣材写真を乗っけても行われる演奏が変わらない、という現実があるからだと思われる。」「ただし、オーケストラや楽団を覗き、確固たる実力のもとにソリストであれば、奇抜な宣材や見た目でも受け入れられている事実もある。」と回答しているように、鑑賞者とのパワーバランスを考慮せずに自由な形で宣材写真を撮っている演奏家の存在も注視しなければならない。この回答が表すのは、宣材写真で鑑賞者に与えるイメージと本人のパフォーマンスを完全に分離させている演奏家たちの存在だ。このような演奏家たちは彼らのパフォーマンスに自信があるからこそ、宣材写真については革新的な態度をとっている。イメージのもつ強さを演奏技術が圧倒する人であったり、人からどのように思われたいなどの他人の目を内在しないならば、一体性を意識することなく宣材写真の撮影に取り組めると思われる。



とめ

  1. 演奏家のほとんどは従来の典型的な宣材写真の写りかたを望んでいる。主にコンサートに来場する観客が持つ視点を意識することで維持されてきた「良い宣材写真」は、演奏家本人が希望するイメージよりも、生存戦略として彼女たちの日常的なイメージを仮面で覆うように生成されている。

  2. 演奏家同士の同調化も宣材写真の生成に影響を与えている。上述した「良い宣材写真」が典型から発展しないのは、革新派なイメージで自身をアピールしている一部の演奏家を除いて、観客と同業者から伝統的に受け継がれてきた保守的なイメージが求められているからである。それは個々の演奏家のパフォーマンスや本人のイメージを総合的に考えられた上で、そのイメージが理不尽に批判されることがある。その現状を大半の演奏家は内面化した上で典型的な宣材写真を踏襲しているおり、その制作には歴史的に被写体の変身願望を叶えるという役目を果たしてきた写真館が後押ししている。

 

アンケート調査でAさんが答えていたように、宣材写真を撮影する人々の多くは今回問題提起した典型的な演奏家写真について疑問を持ったことすらなく、それは大半の演奏家にとって標準的な感覚である。この論考では、今までに無いイメージを制作することへの圧力は蔓延していることは改めて認識することができた。しかし、演奏家たちは無意識的に典型的な宣材写真の再生産を継続していくだろう。再生産によって、これまでも存在していた暗黙の了解であった「典型」は、より強固に規範へと変化していくのだろうか。それとも、女性たちのイメージは「演奏家」を超えて、新しいイメージングを獲得していくのだろうか。

女性たちのイメージングには、現在に至るまで様々な変遷があった。今回の宣材写真や広義のプロフィール写真などを取り扱っている写真スタジオはいかに私たちの日頃の生活から距離を保たれた位置にあることからも、これらの変化は興味深い。例えば、証明写真機は至る所に設置されており、24時間利用することができる。また、2014年からはプリクラ機でも証明写真が撮影できるようになった。ゲームセンターの奥まった場所に集合して設置されているプリクラ機は証明写真機のような人目に付く場所ではないため、入りやすく、撮影料金も安い。

プリクラ機はスマートフォンのフロントカメラの普及によって2010年代までの勢いはなくなってしまったが、女性のイメージングの拡大には拍車がかかっている。宣材写真にはレタッチなどの技術面のスキルが必要とされるため現在スマートフォンによる宣材写真の撮影は一般的ではないものの、写真機としてのスペック自体は商業カメラマンが用いているカメラに近づいている現状がある。ポートレイト(自撮り)の編集アプリケーションは既に広く行き渡っている。このような片手で操作できる手軽なメディアが女性演奏家の表象を変化させるのか、それともスマートフォンの利便性やカメラの身近さこそが彼女たちを写真スタジオという特別な空間に誘うのかは、今後も注視していきたい。



また調査の途中で、この論考で取り上げた女性演奏家たちよりもさらに女性性を強調した写真を起用している女性演奏家がいることもわかった。オーケストラや楽団などの集団に所属する演奏家達が一体性を保つために典型に嵌った写真を撮影するのに対し独立した演奏家が露骨に女性性を主張したイメージを用いる状況は、宣材写真の枠組みを超えて、普遍的な「自撮り」に近い印象を受ける。今回の論考で対象となった古典的なイメージを生成する女性演奏家が、西洋絵画的な典型を踏襲した「保守的」な宣材写真だとしたら、女性性を大胆に拡大する女性演奏家達は「革新的」な宣材写真を提唱している。そしておそらく彼女たちは、イメージを自ら形作るだけでなく、彼女たちのイメージがその周辺の同業者や観客にも受け入れられる環境を同時に形成しているだろう。このような保守的な女性イメージングと革新的な女性イメージングがどのように交差し、どのようにすれ違っていったのか。女性を巡る表象は今も当事者の生存戦略によって揺れ動いているといえるだろう。



参考文献
  • “写真の歴史” (「知の再発見」双書)クエンティン バジャック/伊藤俊治 翻訳
  • “写真のなかの「わたし」: ポートレイトの歴史を読む” (ちくまプリマー新書) 鳥原 学
  • アウラ・ヒステリカ―パリ精神病院の写真図像集” G. ディディ・ユベルマン
  • “自撮りと女子文化: 演技する身体と自己イメージの操作 The Girls' Culture of Selphie: Manipulating Body Image and Self Image to Produce” 馬場 伸彦
  • “明るい部屋―写真についての覚書” ロラン バルト
  • “ギャルと不思議ちゃん論―女の子たちの三十年戦争” 松谷 創一郎
  • “視線の物語・写真の哲学 (講談社選書メチエ)” 西村 清和