山の上

だいたい自分のために書いてる

詩 - #5

 このブログはここ2年ほどでようやく物心がついた大学生(21)のブログなので、ここで放たれる言葉には容赦してもらいたいと思う。成人しているから言葉に責任を取りなさいと言われても、私は取らない。ただし、間違いは認めよう。それが間違いであったなら、それを受け入れようと思う。

 

 

 21歳は15歳から6年経過しただけだ。ただ、私は冒頭に言ったように、ここ2年ほどしか人生を鮮明に遡ることができない。6年という年数は今適当に思いついたので例に出したが、私は6年どころか3年前の記憶すら怪しいだろう。3年前の自分がどういう人間だったか、具体的にいえば、私が何を考えていたかわからない。つまり、自己同一性が曖昧で、今を生きていながら、崩壊する数年前の自分の記憶を保護しようともしない。

 

 変わらない日常を私は写真に残さない。それがストレージを無駄に占拠するものとしか思えないのは、感性に乏しいものがある。私はそれを実はわかっていない。無形の何かを形に残すことが最善でないことを知っているからだ。だからこその文章である。文章は嘘しか表現できない。しかし感性的な事実は述べることができる。写真論の「視覚的真実」と「光学的真実」を学んだ時、それこそ私はスティーグリッツのEquivalentのことを思い出させられるのだ。心的な事実を置き去りにすることを許せないからだ。文章は無意識の何かを引っ張ってくる。無意識を引き摺り回す。あなたが記述することのできる文章の有限性から、自分が文章に引き摺られ、何かに挟まれていることに気がつく。抜け出せることのできないコミュニケーションの領域。方言。地域。Province。それらを横断しよう。新しい筋肉を以って。